ふるさとづくり上高尾の会交通アクセス年間スケジュール

「5年目の交流への思い」

「あっちにもカエルがおるー!」
「シカ肉、もっとちょーだい!」

 大阪の子どもたちの元気な声が上高尾の青空に響くようになって早5年目。田植えから稲刈りまでの農事暦に合わせて年4回のペースでおこなっている交流イベントも、すでに恒例のものとなっている。「ふるさとづくり上高尾の会」のメンバー16名と、大阪居住者を中心とした「上高尾サポートの会」からの参加者30名程度、計50名ほどが一緒に農作業で汗を流し、料理を作り、食べて飲んで楽しむ、というシンプルなプログラムが中心ではあるが、イベントの最中は上高尾が笑顔と活気とにぎやかさで包まれている。

 わたしはひょんなきっかけから今こそサポートの会のまとめ役を仰せつかっているが、上高尾と関わるようになってからまだ2年ほどしか経っていない。初めての訪問は2012年の晩秋、外は冬を思わせるほどの寒い夜のことだった。ストーブが焚かれた和室に上高尾と大阪のメンバー10数名が集い、それぞれが自己紹介を兼ねて交流への思いを語り、その後酒を酌み交わしながら、ストーブの暖気にも負けぬ熱気で交流のあり方を話し合うという会だった。このときのわたしは、「交流の経緯も詳しく知らない自分が、初めての上高尾でいきなりディープな場に居合わせることになってしまったな」という戸惑いと、同時に、上高尾がここまで熱いエネルギーに満ちた場所であったことに大きな驚きと魅力を感じたことを覚えている。

 それ以来、交流イベントには毎回参加させてもらうようになり、同時に、昨年からはサポートの会が上高尾で小さな畑をお借りして、素人なりに野菜やハーブの栽培をさせていただいている。農作業を含めると、2年足らずですでに20回以上は上高尾に足を運んでいることになる。今ではわたしたちが畑作業をしている脇を地元の方々がたまたま通りかかると足を止めて話しかけてくれたり、ときには野菜をお裾分けしてくれたり、ビールに誘ってくれたり・・と、こちらが恐縮してしまうほど身近に接してくれるのが非常にありがたく感じる。

 この交流をきっかけに、これまでにロケットストーブや石窯が上高尾で製作され現在もイベント等で活用されている。しかし正直なところ、「上高尾サポートの会」という形で交流させてもらってはいるが、現状ではむしろわたしたちの方が上高尾の恩恵に預かっていると感じることが少なくない。淀川の源流である澄んだ水、紛れもない満天の星空、四季折々の鳥や虫の声。大阪の子どもたちが清流や田んぼで生き生きとした表情ではしゃぐ姿を見るたび、交流することの重要性を実感している。そして5年目を迎えた交流は、双方向的にさらに発展させていく段階に来ているのではないかと感じている。上高尾の会で事業化を進めている藁灰こんにゃくのさらなる活用法や、上高尾での宿泊環境の整備など、現時点で検討できることもさまざまである。「近い将来のビジョンを共有」したうえで、アイデアを互いに出しつつ、一歩ずつ進めていくというプロセスを経て、結果、上高尾の「体感温度」が今より少しでも上がっていくようにできればと思っている。

上高尾サポートの会会長 丸尾聡

「本当に必要なこと」


2012 年 5 月 5 日、田植え&案山子作り体験のため上高尾にいた日、北海道泊原発 3 号機が定期点検のため停止し、稼動中の日本の原子力発電がゼロになった。大阪に帰るとメディアは案の定、夏の電力不足とか経済への影響などと煽っていた。本当は原発なんかやめて火力発電にしたほうがトータルで石油の消費量も減らせるし、電気代も安くなることはとっくに分かっていることなのに。
 そもそもそこまでの危険を冒してまで進めなければいけない経済成長や科学の発展とは何だろう。大きさの決まっている地球上で永遠の成長なんて本当にできるのか。便利さを追求してもどうも幸福にはなれないようだ。何かおかしい。こうした問題意識を持ち出した人は徐々に増えてきて、上高尾に来る人にもそういった人はかなりいるだろう。
 そうは言ってもこれまで成長も発展もしてきたじゃないかと考える人もいる。それではなぜ出来たのか。多分、いや間違いなくそれは石油の力によるものだ。
 地球がおそらく数億年かけて大地にたくわえてきたエネルギーを人間はわずか百年ほどの間に半分近く使い、今なおその量は増え続けている。いやまだ五分の一しか使っていないとか、自然エネルギーを電気にしようとか、そんな議論はどうでもいい。何億年という年月の前に五分の一であろうが十分の一であろうが意味はないし、結局のところ全てのエネルギーは太陽光からしか得られない。大規模な発電所を作るには結局石油を使わないと出来ない。省エネ技術の開発に莫大なエネルギーを浪費している余裕はない。石油も元は
おそらく太陽エネルギーだ。経済成長だとか科学の進歩だとか言ってきたものは単にエネルギー貯金の食いつぶしや、石油ドーピングでしかないのかもしれない。
 実際には人類は石油がなくとも過去に何万年も生きて来たしこれからも生きられるだろう。ただ、今の社会のまま石油が使えなくなったとするとどんな恐ろしいことになるか。だから少しずつ社会を、石油ゼロには出来ないにしても、出来る限りいま現在お天道様から頂いているエネルギーの範囲で暮らしていけるものにしないと。
 石油ドーピングから抜け出すため本当に必要なこと、それは間違いなく自分たちの食べるものを自分たちで作ること、それを生み出すきれいな水と大地を子孫に引き継ぐこと。
 とはいえ、文明社会の中で何の力もない中年のおっさんに成り果てた自分を省みて恥じることも多々ある。
そんな中でわずかに出来ること、せめて我が子には少しずつでも自分の力で生きられるようになっていって欲しい、それを学び伝えるため私は家族とともに上高尾に来る。いや我が子だけでは不十分だ。周りがみんなドーピング漬けならとても生きていけない。上高尾にしてもここにだけきれいな水と美味しい米があっても、他から攻めてこられておしまい。日本中、世界中がそうでないと。
 私一人の手には負えない大きな、でもあたりまえの問題を、少しでも理解してくれる人が増えるよう急いで、しかしあせらず、日々の楽しみも忘れずじっくりと伝えて行きたい。

上高尾サポーターの会 中森 真洋

「上高尾のオールドボーイズ&シスターズの皆様へ」

 もう、かれこれ4年目のおつきあいになりますね。
家族全員で年に3-4回は、田んぼのお手伝いに行かせていただいています。
祖父母の家にも、こんなに頻繁には出向かない私たちですが、なんでこんなに続いているんでしょう。
不思議です。実に不思議。
それをつらつらと考えるに、動いているからじゃないかと思うのです。
1年目、友人に誘われて初めて上高尾を訪れた季節は、確か夏の終わり。
真新しい長靴をはき、チョロチョロっと田んぼの土を触る。源流の沢蟹をほじる。眺めるだけの自然は美しく、風の通り道が見えるように、空気は澄んでいました。

翌年2011年、友人を誘い、子供を連れだって来るようになりました。上高尾の会のボーイズ&シスターズの顔を覚え始めたのもこの年。お酒もたくさん飲み語り合いましたね。限界集落、高齢化がすすむ村。移住を期待され
ながらも、真正面からそれを受け取れないでいるもどかしさも、心の奥にはありました。しかし、確かに一緒に作ったお米はおいしく、シスターズ達から教えてもらうお漬物や、山菜から元気をいただきました。

収穫祭には、オールドボーイズによる芸能獅子舞が飛び出し、皆を沸かせてくれましたね。子供たちが、弾けるように笑う姿はますます「来てよかった!」を確信しました。
当時、次女の作文に「稲刈りのときに、鎌で稲の根本をスパッと切る瞬間が楽しくてしょうがない」というものがありました。家の中では、ついついゲームにはまりがちになり苛立ちを見せる子が、上高尾では、はまればいつまでも土と遊びます。
「働かざるもの、食うべからず~!!」と叫んだこともありました。
田植えもそこそこに、おたまじゃくしを踏んずけた!だの、疲れた~だの文句を言って畔で座り込んでいる子供たちに、古典的な一言。あ~私って日本人だな~(DNAは)農民だな~と思って苦笑してしまいました。
都市部に住んでいると、子供たちは「働きません」。せいぜい「お手伝い」どまり。でも「お手伝い」っておもしろくない。親に言われてやる「お手伝い」が楽しいはずがありません。それがここでは、自分で食べるものを育てる労働が、自然と目の前にありました。なんて、気持ちのいい説教でしょう。それから、2年。それぞれの年に、それぞれの出会いがあり、別れがあり、でも少しずつ動いてきた感ありです。

上高尾のオールドボーイズ&シスターズが本格的に藁灰こんにゃくづくりに着手。「あ~しんどいしんどい」と言いながら、あれよあれよと商品化、2013年の春、空堀商店街での販売には、手ごたえを感じました。
藁灰こんにゃく、我が家でも大好評です。
収穫祭では、上高尾の会と、私たち町衆のサポートの会が共催で、多くの人に楽しんでもらえましたね。私は、上高尾の周辺地域に住む方々が数多く訪れていたのが印象的でした。青山町に住む若い家族、化粧ばっちりの高尾のお母さんたち。こんな人もここに住んでいたんだと、改めて知る機会になりました。
そうですよね。上高尾をサポートしようと立ち上がったサポートの会ですが、上高尾の周辺地域にも人はいて、きっかけさえあれば一緒にできる事があるはず。これからは、上高尾と大阪、点と点ではなく、淀川源流から下流に向けて線として人がつながれる交流になればと思っています。サポートの会も「サポート」という恩着せがましい言葉を早いこと脱ぎ捨てて、もっと動いていかなくっちゃ。ボーイズ&シスターズたちに置いてきぼりにされないように。
これからもどうぞよろしくお願いします。

上高尾サポートの会 塙 ともえ
2014.3.2

「十才の私」

わたしが一番印しょうに残っている思い出は、囲碁の合宿に行ったことです。行く前、私は囲碁の基本を知りませんでした。けど、指どう碁を打ってもらって、そのき本を知りました。それに、沖なわの子や北海道の子たちとたっくさん友だちになりました。
「来年も合宿で会おうな!」という約束もしました。家に帰って、お姉ちゃんと三回打ちました。全勝できてうれしかったです。お父さんには、三石置いていたけど、今では、おき石なしで戦っています。それも、この合宿のおかげだと思います。
もう一つの思い出は、上高尾という所に田植え、草むしり、いねかりに行ったことです。田植えは、田んぼに草を植えることです。三時間くらいぶっとおしでやったのでものすごーくつかれました。でも、川遊びでは、一時間半ぐらい遊んでいたのに、まったくつかれませんでした。
草むしりは、ドロに入って雑草を抜くことです。私はふっつーに入って草をぬいていたのに、お姉ちゃんと友だち達は、おたまじゃくしの死がいを見たといって、一歩ぐらいしか、田んぼに入りませんでした。
草むしりの時が、田植えの時か覚えていないけど、かかしを作りました。じ元の人たちと協力して五体、作りました。今もあると思います。
いねかりは、一っ番楽しい時です。かまで「シャ」。とかるのは、と~っても気持ちが良いです。
この後、このかったいねでおにぎりを作りました。おいしかったです。でもすぐに川遊びに行きました。川遊びで、タオルをぶんぶんふり回して遊びました。かぜひきそうになりました。
合宿も上高尾もどっちとも楽しかったです。

塙 桃